やくしんInterview

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答えは自分のなかに 横尾忠則さん(美術家)

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美術家として、独創的な作品を世に送り出し続けている横尾忠則さん。
八十歳になったいまも、その創作意欲は衰えることがない。
アート界の第一線で活躍する横尾さんに、創作への思いや人生観などをうかがった。


【プロフィル】横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県生まれ。グラフィックデザイナーとして活動を続け、72年にニューヨーク近代美術館で個展を開く。80年にピカソの絵に衝撃を受け、美術家(画家)に転身。以降、多彩な作品を生み出す。紫綬褒章、旭日綬章、毎日芸術賞、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞など、表彰多数。12年、神戸市に横尾忠則美術館、13年、香川県に豊島横尾館を開館。『横尾忠則 千夜一夜日記』(日本経済新聞出版社)『死なないつもり』(ポプラ新書)など著書多数。


自分の本性に従う

――横尾さんは、絵の創作はもちろん、小説やエッセイを書くなど、とても精力的に活躍されています。そのエネルギーはどこから来るのですか?

僕の場合、創作を続けることでエネルギーを吸収しているように思います。ですから、疲れたら逆に、絵を描きます。そうすると、自分の体が活性化し始めるんです。絵を描かないでいると、エネルギーがだんだん減少していくのが分かります。その状態が続くと体調を崩してしまうんですね。病院に行くのもいいですが、結局、僕の〝主治医〟は創作。入院することもありますが、病室でも絵を描いています。

――横尾さんはさまざまな手法を絵画に取り入れて、常に変化を求めています。「変わる」ことに不安はありませんか。

私たちが生きているこの世界は、すべて変化するのが当たり前です。だから、僕は変化しないことの方が苦痛なんです。僕の絵のスタイルは何通りもあって、午前と午後で全然違う絵を描くことがあります。同じところに停滞してしまうのが怖いんですね。だから、変化することを躊躇(ちゅうちょ)しないし、むしろ、それが僕の自然な形なのだと思っています。僕の作風がどのように変わっていくのか、すごく楽しみでもあります。

僕は、子どもの頃から飽きっぽい性格でした。それが僕の本性だといえます。自分の本性に従っている分には、そんなにしんどくありません。本性から離れて人に合わせて生きていこうと思うと、常に他人の目を意識しなければならないですし、世間や社会に合わせないといけません。また、社会にあふれる情報も次から次へと追いかけていかなければならない。そちらの方が大変です。

――情報社会といわれるなかで、人びとは汲々(きゅうきゅう)としているように見えます。

情報が先に溢れたのではなくて、〈何をしたらよいのか分からない〉という不安を抱え、一人ひとりがその〝何か〟を自分の外に探そうとするから、それに応えて情報も提供されるわけです。出版物などもそうですが、なかには大衆の不安をかき立てて、商売につなげている場合もあります。だから、最初から情報があるのではなくて、何かを求めようとする人間が、情報社会をつくり、汲々とさせてしまったのです。

でも、本当は、誰でも自分のなかに答えをもっているはずなんですよね。汲々とする必要はないはずなのに、自分のなかに答えはないと決めつけているから、どうしてもそれを外に求めてしまう。そんなことをしなくても、自分自身を見つめることで、その答えは見つかりますよね。


自分も命も謎ばかり

――自分自身を見つめることが大事なのですね。

そうですね。しかし、誰にとっても自分という存在は分かりにくいものです。人のことはよく分かっても、自分のことはなかなか分からない。謎の存在だと思うんです。だから、僕は謎解きをしたい。僕が禅寺で修行するのも、海外に行くのも、そのためです。そのなかで僕の知らない自分と出会い、〈ああ、こういうことだったのか〉と、一つ謎が解ける。すると、また新たな謎が出てきて、それを解こうと努力する。自分で次々と謎を増幅させているようにさえ感じます。
 本当は謎なんかなくて、ただ妄想しているだけかもしれません。でも、妄想することで見えないものが見えてくることもあるのかなと思っています。ただ、そこまで突き詰めて考えてはいませんけれど。優柔不断で飽きっぽいですからね(笑)。



――このほど、エッセイ集『死なないつもり』を発刊されました。横尾さんにとって「命」とは。

命とか魂というのは、よく分からないものですよね。実際に体のどこにあるのかも分からないし。でも、そのよく分からないものに、自分は生かされているという感覚はあります。それは多かれ少なかれ、誰もが感じていることではないでしょうか。

運命といったらいいのかな。何か知らない力が働いて、自分でも思ってもみないような成功を収めたりすることがありますよね。自力と他力という言葉があるけれども、人間は自力だけでは生きていけない。命って、やはり自力と他力のコラボレーションではないかと思います。他力も僕にはよく分からないけれど、それは「自然」ということなのかもしれないです。

こうした、よく分からないもの、実証できないものは否定されがちですが、それなしに人間や社会、世界について考えることは難しいのではないかな。そこから導き出された答えは、正解とは言えないのではないかと思います。

――「命」とは一人ひとりの「生」を超えたものなのでしょうか。

自分の肉体が消滅したら、それですべてなくなるかというと、僕はそうは思えないんですよ。心のどこかで、次の世界、向こうの世界があることを想定して生きているような気がするんです。普段はあまり深く考えていませんが、人間の本性はそのことを知っているのではないでしょうか。

例えば、人間は死ぬ間際まで、何か良いことをして、良い人間になって死んでいきたいというところがありますよね。家族に「ありがとう」と言って、感謝して死んでいくというような。また、死後の世界を信じていない人でも、お葬式の弔辞で、「そのうち俺も行くから、向こうで一緒に酒を飲み交わそう」なんて、あたかもこの世の続きがあるような言い方をすることもあります。

人間は、深い部分でお互いにつながっていて、得体の知れないものに生かされていることを無意識に分かっているのではないかという気がします。人間って面白いですね。

『やくしん』2017年1月号 (佼成出版社)


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