生きる力の源泉

生きるために必要な力とはなんでしょうか。その力はどこからわいてくるのでしょうか。 このコーナーでは、算命学カウンセラーの中森じゅあんさんがコーディネーター役になり、各界で活躍されている方々をゲストに迎えて、私たちが「本来的に生きる意味」を再確認し、「どう生きるか」をあらためて考えていきます。

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生きる力の源泉

中森じゅあん×プラユキ・ナラテボー 対談【後編】 仏教は生活に生かせる智慧

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第11回は、タイの人々の精神修養や村の開発に力を尽くす一方、人生苦を抱える日本人に向き合い続けるプラユキ・ナラテボーさんがゲストです。

プロフィル
プラユキ・ナラテボー
1962年、埼玉県生まれ。タイ東北部のスカトー寺副住職。上智大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学。農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。著名な瞑想指導者・ルアンポー・カムキアン師のもとで出家。村人のために物心両面の幸せを目指す開発僧として活動する一方、日本とタイで仏教の智慧による心の救済に尽くしている。著書に『「気づきの瞑想」を生きる』(佼成出版社)、『苦しまなくていいんだよ。』(PHP研究所)ほか監訳書がある。

中森じゅあん(なかもり・じゅあん)
日本算命学協会代表。バイオシンセシス・ボディサイコ・セラピスト。「灯(とう)の会(え)」主宰。ワークショップ、セミナー、個人セッション、講演、エッセイやメッセージの執筆など、多岐にわたる分野で活躍。幅広い女性層から支持を得ている。著書に『中森じゅあんの算命学入門』(三笠書房)、イギリス、アメリカ、中国でも翻訳された『天使のメッセージ』シリーズ(大和出版)は世界で愛読されている。『天使の愛』(中公文庫)など多数。


思いやりのある言葉を

中森
お釈迦さまは、ふれあう人の理解度や性格、願いに応じて臨機応変に法を説くという一対一の対機説法をされていたのでしょうね。

プラユキ
ブッダは「今ここ」とか、「われを忘れないように」というポイントは外さず、かつ、異なった色合いを持つ一人一人の機根や性質、願いを知り、それに応じてオーダーメードの教えを説かれていたのだと思います。人それぞれに人生があって、人それぞれ悩みがあるわけですが、苦しみが生じてくるからくり、それが消滅していく普遍的な法則性は共通です。ですから、悩みを聞かせてもらい、普遍的なポイント点をその人に合った言葉でちゃんとわかりやすく伝えれば、その人自身で自ら悩みを解決していけるんですね。

中森
一人一人違っても、自らの力で、真理は入っていくわけですね。

プラユキ
想定内、想定外という言葉がありますね。想定内なことだったら、「ああ、そういうことだよね」と自然に受け止められる。びっくりすることもない。でもときには、良かれと思ってやってあげたことが裏目に出てしまい、相手から想定外の言葉や反応が返ってくるといったこともありますよね。
そうした相手の想定外の言動に出会ったときにどう対応できるかが勝負です。動揺したりイラついたりしてしまわずに、あるがままに受けとめ、理解しようと努めていく。すると、「なるほど、そういったモノの見方や考え方もあるんだな」と合点がいき、自分のモノの見方のとらわれから自由になっていく。私自身、自分の心を見つめるだけでなく、人の悩みを聞かせてもらい、ときにはこうした想定外の反応に出会うといったプロセスを通して、自身の心の器を広げたり、人間理解を深めてきたという感じですね。

中森
よく分かります。それまで生きていた環境とか体験の中でしか分からないことの他、頭で想像したりして分かっているだけなんですね。
それにしても心の問題はますます深くなってきたなと感じます。心のことにもっと目を向けて、しかも希望を持って、自分自身の本質の大事さを知る。そのことを教育の段階でできるといいですね。

プラユキ
まさにそのとおりですね。

中森
私はグループワークを中心に行っているのですが、そこででてくる本音は総じて言うと、小さいとき、「あるがままの自分」を受け入れてほしかった! それに尽きますね。親がこうだったということが浮上してきます。でも大人になれば、深く内側を見つめて、「今あるがままの自分」を「本質的な自分」と受け入れることが可能になり、実践していくことが徐々にできていきますね。仏教では真我というのですか。

プラユキ
仏教では、真我なるものは存在せず、「無我」であるとされます。一切の現象は縁起によって生じてくるということですね。「我」とはそうして構築化された概念であると捉えられているわけです。

中森
原因があって結果がある。その結果のほうをなんとかしようとしがちですが、原因の部分を訪ねていくと、どこにいきあたるのでしょうか?

プラユキ
無明、すなわち物事の道理がわかっておらず、貪欲などの心の癖に翻弄されてしまうことです。

中森
そうした積み重ねと、カルマの違いを仏教ではどういうふうにとらえているのですか?

プラユキ
カルマは、もともと行為という意味です。バラモン教などのカルマ理論だと、過去世や来世といった話になってきますが、ブッダの言うカルマは、私たちの今この瞬間の心のアクションも含めた身口意の行いによって、即時にその結果も自ら得ているということです。それを「積み重ね」という観点で捉えれば、人それぞれの身口意の行為の積み重ねによって、その人なりの心や行動の傾向性、すなわち癖が生じてくるということです。

中森
その原因が、親であろうと幼少期であろうと、過去や前世であろうと、今、ここに起こっていることを見つめて、気づいて、受け入れて、それにそのまま向き合っていく。それが大事なことですよね。

プラユキ
はい、ブッダのアプローチでは、問題の原因を過去にさかのぼって探っていくということはしません。まず今ここに生じていることに向き合い、あるがままに受け入れる。そのうえで、しっかりと吟味し、必要なものと不必要なものとをより分け、不必要なものは執着せずに手放していく、といった感じです。

中森
自分のあり方に気づけば悩みは消えるということですね。

プラユキ
カルマを時間的なスパンでの因果関係で捉えれば、こうしたことが言えます。今は過去の集大成。ですから今を幸せに生きられるなら、おのずと過去の一切の出来事は今の幸せのための原因となります。また、未来は今の結果として生じてくるもの。したがって、今を幸せに生きられるなら、その因によっておのずと未来にも幸せが待ち受けていることになります。過ぎ去った過去や、まだ来ぬ未来に思いを馳せる必要はありません。今ここの目の前の人と、あるいは今この瞬間の自身の心との一期一会を大事にして、心安らかにマインドフルネスな状態で、苦悩の物語を紡がず、幸せに生きることを自ら選択していけばいいんですね。
ところで、私たちはなにか辛いことが起こると、その理由や意味を求め、ときには前世に原因があるのではと思って、前世を見られるという人のところへ行ったり、あるいは、「あのときのバチが当たったのかも」と勝手にこじつけたりします。私たち人間にはこうした意味についての執着がすごくあるんですね。

中森
そうなる意味を知りたいんですよね。

プラユキ
ブッダはこうしたこともとらわれの一種であると看破したのです。体に刺さった矢を抜かずに、弓の種類や刺した人のことなどをあれこれ尋ね続けるという有名な「毒矢のたとえ」はこうした人間の意味への執着を風刺した話です。
ところで、「苦」と訳されるドゥッカ(DUKKHA)は、「思うようにならないこと」が原義なんですね。したがって、苦は「不確定性」とか「不確実性」とも訳せます。そのような思うようにならない不確実なことをあるがままに受け入れ、意味にこだわることなく、ただただ今ここでできる最善なことをやっていく。そうした善き行動を続けていけば、どんどんといい方向へと変化していくのですね。

中森
ご著書に、対話の中で重要になる四つの善い言葉を紹介してくださっていますが、それは四善業っていうんでしたね。

プラユキ
口(く)の四善業ですね。ブッダがおすすめした善い言葉と悪い言葉の分類です。
善い言葉の一つは、「正直に真実の言葉を表現すること」、嘘や偽りはよくないということです。二つ目は、「仲違いしている人がいたら仲直りさせてあげるような言葉で調停してあげる」のが善い言葉。二枚舌を使ったり、仲を引き裂くようなことは言わない。三つ目は、丁寧な言葉、優しいニュアンスの言葉で話す。その逆の汚い言葉、ぞんざいな言葉は悪い言葉です。四つ目は、無駄話は慎み、時と場所にふさわしい役に立つ言葉、心の栄養になるような言葉が善い言葉です。興味本位の話で盛り上がりすぎては時間とエネルギーを消費しています。
こうした分類によって、ブッダは言葉の持つ力を伝え、思いやりのこもった言葉を促されたのでしょうね。また、人と話すときだけでなく、自分の心に対して言葉がけをするときの言葉の選択も大事だと思います。

中森
時には、つい人の仲を裂くのが趣味のような人いますよね(笑)。

プラユキ
それはちょっとよくないですね。そうでなくて、ひび割れた関係を仲直りさせてあげないと。

中森
私は「またやっちゃった」「自分はダメだ」「自分にはできない」といった思いを「自分いじめ」と言っていますが、今ここではダメだなんてだれも言っていないのに、自分で自分の首をしめている人も少なくないですね。

プラユキ
「自分イジメ」、いい言葉ですね。そういった暴言を人に吐いてしまう人もいれば、自分に向けてしまう人もいて、極端な場合、自殺にまで自分自身を追い込んでしまうわけですね。

中森
話があちこちいって申し訳ないのですが、仏教で言う方便というのもとても大事なのですね。

プラユキ
ええ、算命学も瞑想も方便ですね。人を正しく導く際に使える方法がすごく大事だということです。善き結果を出すために使っていけるものはどんどん使っていけばいいでしょうね。

中森
それと、命、肉体は死んでも魂とか霊が残るとか、仏教では「肉体は滅すれども」という考えはあるのですか。ない、という風にも言われますね。

プラユキ
ブッダはあくまでも私たちが実際に体験できる現象を問題にしており、魂についての問題など形而上学的な問いには答えなかったと言われています。

中森
それは生きている間が一番いい修行というか、今ここで生きていることに一番の気づきとか成長とか素晴らしさがいっぱいあるからなのでしょうね。

プラユキ
そうですね。もともとブッダの教えは、私たち人間が悩み苦しみに苛まれずに日常生活を過ごせるようになるための理にかなった実践的な教えです。ところが時代を経て抽象化され過ぎたり、奉られるようになってしまっています。もともと「仏さまを拝む」というよりはブッダを先輩として敬い、その教えから学ぶというスタンスでした。だからタイのお寺では今でも、仏像は真ん中の高いところに安置されず、僧歴にしたがって並ぶ僧侶たちの先頭に置かれるんです。

中森
ブッダは高いところにおられるのではなく、今私たちにとってのよき、すぐれた先達だと言ってよいのですね。

プラユキ
はい、先達ですね。ブッダも私たちと同じように悩み苦しみを抱え、そこから自由になりたい一心で修行に励まれ、悪戦苦闘の末に成道に至られた。私たちとすごく似たような、近い感じはありますよね。

中森
日本の仏教は、日本に入って、さらに変わってきているのでしょうか。

プラユキ
私たち上座部の僧侶が学び実践している三蔵に基づいた教えに対して、日本に流入した大乗仏教はブッダの肉声というよりは、そうした教えに飽きたらなかった人たちによってさまざまな改変が加えられて編纂された革新的なものです。しかしいずれにせよ、心苦しまずに生きていく「智慧」、一切衆生と仲良く共に生きていくための「慈悲」が説かれていることに変わりはないと思います。
要は私たち一人一人がそうしたブッダの教えをもとに、実際に自身の悩み苦しみから解放され、心安らかに幸せに生きられるか、また、自分の周囲で困っている人たちをサポートしてあげられるかが問われています。現存する様々な仏教の経典は、そうした人間がより良く生きるために活用できる具体的な智慧の宝庫ですね。

中森
やはり…「今、ここを見つめて生きていくこと」が第一なのですね。今日は未熟な質問をいたしましたのに、いろいろお教えいただいて、本当にありがとうございました。

プラユキ
こちらこそいろいろ引き出していただき、お陰さまでとても楽しいひとときを過ごすことができました。どうもありがとうございます。

中森
タイのお寺にいろいろ悩まれた方とかいらっしゃいますよね。私もいつか行きたいです。そしてプラユキさんのお話や対機説法も受けさせていただきたいナと願っています。

プラユキ
ぜひぜひ、お出かけくださいませ。楽しみにお待ちしております。


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