生きる力の源泉

生きるために必要な力とはなんでしょうか。その力はどこからわいてくるのでしょうか。 このコーナーでは、算命学カウンセラーの中森じゅあんさんがコーディネーター役になり、各界で活躍されている方々をゲストに迎えて、私たちが「本来的に生きる意味」を再確認し、「どう生きるか」をあらためて考えていきます。

検索


生きる力の源泉

中森じゅあん×横尾忠則 対談【前編】 創造の原点とは

  • 不安
  • 葛藤
  • 変化
  • 感謝
  • 親子
  • 仕事
  • 病気・障害
  • 健康
  • 信仰
  • 老後
  • 死
  • 人権



第8回は、斬新なグラフィックデザインや絵画の制作ほかジャンルを超えた活躍で、国内外のカルチャーシーンに影響を与え続ける美術家の横尾忠則さんがゲストです。

プロフィル
横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県生まれ。美術家。60年代よりグラフィックデザイナーとして活躍。ニューヨーク近代美術館ほか、国内外の数多くの美術館で個展を開催。毎日芸術賞、日本文化デザイン大賞、朝日賞など受賞多数。紫綬褒章、旭日小綬章受章。2008年、小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。多摩美術大学教授、京都芸術大学客員教授。『横尾忠則全ポスター』『日本の作家222』など著作多数。横尾忠則現代美術館、豊島横尾館がある。

中森じゅあん(なかもり・じゅあん)
日本算命学協会代表。バイオシンセシス・ボディサイコ・セラピスト。「灯(とう)の会(え)」主宰。ワークショップ、セミナー、個人セッション、講演、エッセイやメッセージの執筆など、多岐にわたる分野で活躍。幅広い女性層から支持を得ている。著書に『中森じゅあんの算命学入門』(三笠書房)、イギリス、アメリカ、中国でも翻訳された『天使のメッセージ』シリーズ(大和出版)は世界で愛読されている。『天使の愛』(中公文庫)など多数。


創造を促す子どもの頃の感性

中森
最後にお会いしたのは15年前。『天使の愛』という私のメッセージ本が文庫化になって、その表紙をお願いしたときですね。本当にお久しぶりです。でも、今から25年くらい前には、旅の雑誌の連載企画で、ほとんど毎月のように、ご一緒にアチコチ旅行をして、じつにさまざまなシンクロニシティやハプニングがあった。不思議旅でしたね。流れで瀬戸内寂聴さんや高橋克彦さんなどともお会いしたり……。

横尾
それにしても中森さん、全然、変わってないのでびっくりした。

中森
横尾さんこそです。年をとっていくという時間の流れが止まっているのかしら。

横尾
いやいや、日々変わっています。先週、家の階段を上がろうとしてつまずいてひっくり返り、足の親指を骨折して、今も痛くてならない。前だったら倒れそうになっても元に戻ったんだけどね。

中森
たしかに身体は正直ですね。私も足にきてるんでしょうね。ハデによく転びますよ。そういえば横尾さんも運動はなさらないですね。

横尾
運動しない。だから運動神経にぶいです。

中森
私も運動が嫌いで、超にぶいです(笑)。
でも見た目が変わらないから、お元気そうですよ。それに心が年をとっていかないんだと思います。いつも新しいことに挑戦して、革新的な作品を目指していらっしゃる。その創造力の源は何なのだろう? って、多くの人が興味をもつところだと思うのですが。

横尾
何だろうね。子ども時代は感性がもっとも豊かで、人格は10代で形成されるじゃないですか。それ以降は情報とか教養、知識とか、頭の作用になっちゃう。するとどうしても観念的とか理屈的になってくる。10代はそうじゃない。子ども時代の20年間の記憶とか体験からいろいろなものが作られている。そこが創造の原点かなとは思うんですよね。

中森
そうですね。人格形成の基本は5~6歳までにできて、それからは、子どもなりに年相応の意思や選択で少年少女期をすごしながら感性や好み、個性で肉づけみたいなのがでてきますよね。
社会との関わりがはじまる20代に入ると思考、教育、知識、記憶、体験なんかで、どんどんマインドや理性、判断、常識、世間などにウエイトをおいていく生き方へと向かっていくのがふつうですよね。
それでもベースにある、幼少期も10代の成育歴って見えないもので、いくつになっても影響を受けていると思いますよ。そういえば、横尾さんは一人っ子でかわいがられて、結構、自由でのびのびした幼少期少年期だったでしょう? すると、その無邪気さや子ども独特の好奇心や冒険心みたいなのは年齢によってそこなわれていく率がずっと少ないんだと思うんですよ。
それがおっしゃる創造源の中心として納得がいく感じがします。

横尾
無邪気さとか無心、純粋さ、素朴さ、そういったものは大人になるに従って失っていきますね。子どもの頃に読んだ本も読まなくなっていく。でも、今、僕は少年少女文学なんて一番自分にぴったりする。77歳の児童っていうのが自分の中にまだいるんですね。それを確かめるのは、それを読んで面白いか面白くないか。面白くなきゃ自分の中の児童はもういないわけです。面白いと思えば、自分の中の子どもはまだ生きている。

中森
やっぱりね。絵本や子どもの文学を読んで、感性がピタッとくるか、楽しめるかって、自分自身で分かるし、心年齢を知るにはいいバロメーターですね。
横尾さんの内なる子ども(インナーチャイルド)が喜んでいる証しですね。77歳じゃなくて7歳の!?

横尾
大人になりたくない願望が強いのかもわからないね。世間ずれするとか理屈っぽくなることに本能が抵抗しているというか、もう一方の自分が「なるなよ」って言ってるような感じ。

中森
子ども時代が楽しかった人は「大人になりたくない」とか、「自由だった幸せ感」とかが内面でイキイキと息づいているんでしょうね。
年や経験を重ねるにつれて、その息づいているエネルギーとか声とかの存在を忘れていきがちですが、横尾さんは、それを感じて、それを生きていらっしゃる。
アーティストは理屈抜きの感性中心で通していかれ、むしろ「大人にならない」でいられる方がご自分や才能を生かせる職業ですよね。

横尾
そうね。他のお仕事に比べると個人的な欲求とか願望とか、わりかし忠実になれる仕事じゃないですか。


自力他力をブレンドする日本人

中森
いずれにしても画家の道を選ばれたのはお好きだからでしょう?

横尾
やっぱり好きですね。

中森
誰でも、好きなことをすることって自分を幸せにすることだと思うんですよね。たとえ、職業にしなかったとしても、趣味やアマチュアとしてだって。
横尾さんはお小さいときから「お絵描き大大大好きー!」だったんでしょう。それを本職になさった今はいつもワクワクなさいますか?

横尾
いやいや、描きたくないことも結構あるんですよ。本質的な性格の一部分で、面倒くさいことをしたくない。体調を崩すとか、絵を描くことから逃げて、悶々としてる時間が結構多いんですよ。このままいくと絵が描けなくなるんじゃないかなと思う。でも、そういうときに絵を描いてみると、こんな簡単だったのかみたいなね。

中森
悶々としていている時間って、いろいろあると思いますが、主に作品についてですか。それとも他の理由に心が占拠されるからですか?

横尾
他の理由もありますよね。何かっていうと、生きるっていうことに繋がってしまうんだけどさ。

中森
全く同感。その通りだと私も実感しています。
ですから自分にも周囲の人たちにもできるだけ頭でアレコレ考えるのはやめて、頭の声は脇へ置いて、体の声や心の声にフォーカスするように言っています。つまり頭のおしゃべりにストップをかけて、ボディやハートを「感じる」ことを意識的にしたほうがいいんですよね。

横尾
年齢と共にだんだん老化が進んで、体も若い頃は無理しても平気だったけどそれができない。その体に忠実になろうとした場合は、今日は描きたくないとなる。体がブレーキをかけているのかもわかんない。そういうときは休んでいいと思う。頭は迷うし悩むし嘘もつくから頭の声でなく、できるだけ体の声に忠実になるんです。魂に近いのは体のほうで、頭はちょっと違うんですよ。

中森
そういえば、横尾さん、昔はUFOにとっても関心が強くて、旅先では夜UFOを呼んで、見せてくださったりしたじゃないですか。今はどうですか? マリア様や天使などなど、見えざる高次元の世界については……。

横尾
そういう不可知な世界のことを否定はしていないの。なんて言ったらいいのかな。例えば、神がいて、こちらの願いごととか聞いてくれるというキリスト教の世界があるじゃないですか。うちは神道で両親は信心深かったから何か困りごとあったりすると神さまが救ってくれるとなる。でも、仏教の世界は、自分を信じなさいっていうところから出発しますよね。
日本人は、目に見えない不可知なものに救いを求めたりしたがる一方で、それだけじゃだめだから自分を信じようと知らず知らずのうちに使い分けている。盆はお寺さんで、結婚式はキリスト教や神道だったり。僕も使い分けしている。そういうふうな本能的に区別している自分がいて面白いなあと思うんですよね。僕の中では神仏混合してますね。

中森
私たち、神仏混合は日本人の民族的な柔軟性なのでしょうね。
心の中は個人の自由だし、縁のあるなしもあるし、変化していきますしね。

横尾
それと知的社会の中で我々は仕事をしているわけですが、大半の知識人は不可知なことをまず信じないですね。

中森
目で見、頭で理解し、実証できないものに対しては信じられない。
でも、不可知なものが「無い」と決めつけるのも、またそれを実証することもできないと思ったりします。私たちにとっては、分かる世界より分からない世界のほうがずっと多いと思っています。

横尾
あるとき150号という大きな富士山の絵を描いたんです。それを富士山に見てもらおうと思って、トラックで裾野の牧場に持って行った。森羅万象の中に神格が宿ってるという気持ちから富士山に誠意を見せたかったんです。
それも非常に馬鹿馬鹿しいことをやってるくらいにしか見られないと思うんですよね。でも、それはそれでいいんじゃないかと思うんです。信じてない人を別にこちらは否定もしていない。だけど、自分にとって信じているものはあるわけです。信じているものがなくては生きていけないみたいな弱い部分も自分の中にあると思っているんですよね。

中森
すべての人が今あるがままで自由だと思いますね。何であれ、今の自分が頭でなくハートで信じたり、関心が強かったり、惹かれるものを大切にしていればいいと思っているんです。
私は心とか魂とか霊性とか、形のない、見えない、でも「存在する」と感じられるものに惹かれ、それがもとになって、そこから見えるもの、形あるものが生じて現れていると思うので、(知識としてではなく)体験として、どんどん深く入っていきたくなるんですね。
そこには喜びや感動もあるけれど悲しみや迷い、恐れも自然や宇宙もある。それが人間だと感じるんです。
だから横尾さんが、絵を富士山に見せにいくという自然なハートの声に従った行為はイメージしただけでもステキだし、いい話だナー、かわいいハートだナーって、うれしく感じますね。
誰にとっても本当は自分の内なる衝動とか、情熱とか喜びとかは、実践に移していくためのサインだと思いますね。それを抑圧せずに無邪気に素直に行動されていくところが、横尾さんの「創造の源泉」なんですね。



この記事を誰かに伝えたいですか?