家族再生-私の提言

近年とくに、新聞やテレビで、家族間のいたましい事件が報道されない日がないほど、家族をめぐるさまざまな問題が顕在化しています。児童虐待、熟年離婚の増加、介護疲れによる殺人などがそれです。 こうした状況にあって、夫婦の関係、親子の関係はいま、どうあるべきなのでしょうか――。今月から6回にわたり、家族を再生させるための提言を識者の方々からお寄せいただきます。

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家族再生-私の提言

「結縁」という新たな家族づくり 秋田光彦(僧侶)

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死者に無関心な遺族たち

今夏、熱帯の国に迷い込んだような猛暑の中、消えた高齢者や幼児虐待など家族受難の事件が相次ぎました。一番身近な家族の間にも、弱者が「いのち」の危機に晒(さら)されるような事態が増えています。

無縁死が年間3万人を超える、と言われる現代、葬送の現場でも目に見えて変化が起きています。

とくに葬式は、90年代後半から家族葬が主流となり、現在首都圏では葬式をしない「直葬」が全体の三割を占めると言います。最近は「一日葬」という葬式も現れ、コンパクト化はますます進んでいく。合理化、効率化がすべて悪いと言うわけではありませんが、そういった葬送が縮小していく背景には、葬式を「面倒事」ととらえ、「死後の後処理」のような冷めた感覚が見え隠れしないでしょうか。言い換えれば、死者への敬意や感謝が損なわれ、無関心・無関与だけが蔓延(まんえん)していくように見えます。

葬式とは、本来愛する人との死別を十分悲しみきることであり、またその悲しみから再生していくプロセスであったと思います。残された家族が、死者との絆(きずな)を確かめながら、「いのち」を引き継ぐ、重要な意味があったはず。ところが、最近の葬送の変化は、もっぱら経済的な軸だけが強調され、遺族の務めとされてきたことを忘れているような一面を感じます。

もちろん、葬送の変化の背景には、我々仏教界に対する批判があることも承知しています。しかし、それ以上に互いを慈しみ、支え合った、家族の物語が溶解(ようかい)しつつあると感じるのは私だけでしょうか。


血縁から結縁へ

1997年、應典院(おうてんいん)という新しいお寺を大阪の都心に建立(こんりゅう)しました。

このお寺では、檀家さんがいないので葬式を行ないません。仏事の代わりに、毎日、演劇やセミナー、ボランティア活動を行ない、年間、3万人近い若者が出入りしています。宗教、宗派も問わず、会員がボランティアとして運営に参加しています。

ここに集う若者の多くは、じつは非正規雇用の若者です。就職氷河期の中で、社会から受け入れ拒否を突きつけられた世代でもあります。将来に迷い、悩み、一時は引きこもりになった人もいますが、應典院に集うことで、同じような境遇の仲間と出会い、互いに共感したり、支援したりするような関係ができています。一度断絶された社会とのつながりを、同じ時空を共有しながら、ゆっくりと再生していきます。新たな「縁」によるコミュニティーとも言えるでしょうか。

人間はひとりで生きているのではありません。無数の関係性によって生かされているはずなのに、それが途絶え、行き詰まって、誰もが「私事」という自己中心的な領域に追い込まれているように見えます。自己中心とはつまり他者への無関心であり、排除であり、やがてそれは無縁化を増長していきます。

人間は、何かに所属しないと生きていけない社会的な存在です。それなのに、社会も地域も、家族さえもつながりを喪(うしな)い、バラバラになった「個」が、所在なげに漂っているのが現代という時代です。個を「孤立」させないためにも、私たちは、血縁だけではない、もうひとつのつながりを探し出さなくてはならないと思います。

「血縁」から「結縁(けちえん)」へ。全国7万以上あるといわれるお寺が、そんな結び目になることはできないでしょうか。


墓で結ぶ「いのち」のネットワーク

「結縁」とは、新たな縁結びのこと。お墓もその結び目になることはできます。

私が住職を務める大蓮寺では、2003年に墓地の一角に結縁型のお墓、生前個人墓「自然(じねん)」を設けました。石とガラス板と、ゆたかな緑で構成された造形もユニークですが、最大の特徴は、生前に個人の資格で申し込む、ということです。死んでから、誰かが納骨するお墓ではなく、生きているうちに自分の意思で決定するお墓です。

生前に申し込むわけですから、お寺とのつながりが生まれます。合同供養会(くようえ)や念仏道場、勉強会、さらに懇親会など会員同士が交流を深めます。血縁を超えて、新たな縁づくりが育まれます。

現在、百人近い会員がいますが、中には子どものいない夫婦、また非婚の方も多くいます。まったく知らなかった、いわば他人同士がお墓を触媒として、新しい絆をつくりあげていきます。いわば「墓友(はかとも)」です。

会員からは、こういう声がよく聞かれます。

「ひとり住まいで孤独を感じていたけど、『自然』の友だちとは、率直に話ができて、信頼が深まる」

「いままで死後の不安をかかえてきたけれども、『自然』に集えば仲間が供養してくれるから安心」

さらに大蓮寺では、縁を会員間だけのものに完結させずに、老病死にかかわるNPOともつないで、「自然」を中軸とした同心円のネットワークを結んでいます。

血縁に頼らない、結縁のコミュニティー。互いを支え、拝み合う、新しい人間関係が生まれつつあります。


悲しみでつながる

日本人の1年間の死亡者は、現在120万人くらいですが、今後その数は飛躍的に増加して、推計によれば2038年には170万人を超えると言われています。日本は世界有数の多死社会を迎えることになります。

少子化は今後加速するから、家族の死を同じ家族が支えきることがむずかしくなる。すでに65歳以上の世帯の半分以上が、単身あるいは老夫婦だけの世帯と言われています。

死は、誰も避けることができません。言い換えれば、日本のすべての地域に共通する公共問題として、横たわっています。銘々の顔をした個が、やがて死を迎えざるを得ないと気づいた時、私たちは死に対して無関心ではいられないはずです。それを家族の「私事」として閉じこめず、どうコミュニティーに開いていくか。日本人のいのちの行方(ゆくえ)が問われている、と思います。

仏典には「仏心とは大慈悲(だいじひ)これなり」とあります。

「無縁の慈しみをもって、もろもろの衆生(しゅじょう)を摂(せっ)するなり」(観無量寿経(かんむりょうじゅきょう))

何でもお金とサービスで解決されがちな現代だから、私は改めて老病死に伴う悲しみの力に着目しています。人間は弱い。1人では支えきれない。また、いのちは儚(はかな)く、切ない。だからこそ、悲しみが育む共感や連帯が意味を持つのではないでしょうか。

ビハーラや自死遺族へのケアに取り組む僧侶がいます。野宿者たちにおにぎりを配って歩く僧侶のグループもあります。ここでは、悲しみは無力なのではなく、人をつなぎ、支え、希望へとつなぐものだと思います。

お寺は、念仏道場であると同時に、悲しみに集う、結縁の広場でありたいと念じています。



プロフィル 秋田 光彦(あきた・みつひこ)
1955年、大阪府生まれ。明治大学卒。浄土宗大蓮寺住職。97年、同寺塔頭・應典院を再建、日本でいちばん若者が集まるお寺として知られる。芸術文化の支援やまちづくり、スピリチュアルケアなどにも尽力、現代社会と向き合う仏教を実践する。パドマ幼稚園園長。共著に『地域を活かすつながりのデザイン』『日本人と死の準備』など。


『佼成』2010年12月号(佼成出版社


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