生きる力の源泉

生きるために必要な力とはなんでしょうか。その力はどこからわいてくるのでしょうか。 このコーナーでは、算命学カウンセラーの中森じゅあんさんがコーディネーター役になり、各界で活躍されている方々をゲストに迎えて、私たちが「本来的に生きる意味」を再確認し、「どう生きるか」をあらためて考えていきます。

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生きる力の源泉

中森じゅあん×細川佳代子 対談【前編】 「そうなんだ」と気づいたら行動を変える。それがいちばんの肝心

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第5回は、元内閣総理大臣細川護熙氏の妻で、長年にわたりにボランティア活動を積極的に展開し、とくに知的障がい者の自立と社会参加に尽力する細川佳代子さんがゲストです。

プロフィル
細川佳代子(ほそかわ・かよこ)
NPO法人「勇気の翼インクルージョン2015」理事長。公益財団法人「スペシャルオリンピクス日本」名誉会長。上智大学卒業。1971年、細川護熙氏と結婚。政治活動を支える一方でボランティア活動に取り組む。94年、「スペシャルオリンピクス日本」を設立。2007年には、障がいの有無にかかわらず、すべての人がその人らしく活き活きと暮らせるインクルージョン(包み込む共生)社会の実現をめざす「勇気の翼インクルージョン2015」を設立した。著書に『花も花なれ、人も人なれ~ボランティアの私~』(角川書店)など。

中森じゅあん(なかもり・じゅあん)
日本算命学協会代表。バイオシンセシス・ボディサイコ・セラピスト。「灯(とう)の会(え)」主宰。ワークショップ、セミナー、個人セッション、講演、エッセイやメッセージの執筆など、多岐にわたる分野で活躍。幅広い女性層から支持を得ている。著書に『中森じゅあんの算命学入門』(三笠書房)、イギリス、アメリカ、中国でも翻訳された『天使のメッセージ』シリーズ(大和出版)は世界で愛読されている。『天使の愛』(中公文庫)など多数。


ボランティアの原点

中森
細川さんとのお付き合いは長いので、私はある程度、存じておりますが、一般的な細川さんのイメージは、お嬢さまとして育ち、ファーストレディになられ、知的障がい者のオリンピックであるスペシャルオリンピクスのご活躍で世界をかけまわるなど、スーパーレディとして位置づけられているように思います。しかし内実は、つねに大仕事大困難に挑戦し続けていらっしゃるんですよね。お生まれは、私も幼少の日を過ごした同じ満州(現在の中国東北部)でしたね。

細川
はい。第二次世界大戦のさなかでした。父は満州で役人をしていましたが、終戦の一年前に東京勤務になったので、家族で日本に帰国したんです。

中森
私の父は満州の旅順に置かれた海軍病院の院長をしていましたが、終戦直後、乞われて一人中国へ渡りました。おかげで私は母と二人、父と生木をさかれるようにして帰国したんです。でも、もの心ついて過ごした数年間の幼少期は、満州の自然の雄大な美しさに包まれてよいところだった、という思い出はいまも懐かしく胸にあるんです。

細川
私はあまりにも幼かったので、満州のことは何も覚えていないんです。でも姉たちは、自然がほんとうに美しいところだったと言っています。

中森
終戦後はいかがされましたか。

細川
満州国がなくなってしまったので、父は失業したわけです。その後の経緯はよくわからないんですが、大陸から引き揚げてくる人たちや子どもたちのために、現在の共同募金の原型になる活動を始めているんです。もちろん、父が一人で始めたわけではなく、同じ志の人たちが集まってです。

中森
あの“赤い羽根”の共同募金ですか。

細川
そうです。その活動の原型の一つなんでしょうね。私たち家族は神奈川県の藤沢市で暮らしていたんですが、子どものころ、家にどっさりダンボール箱が運ばれてきて、その中に赤い羽根や針、シートなどが入っていて、私たち家族みんなで募金の際に配る羽作りを手伝ったのを覚えています。たくさんあって作るのが大変なんですけれど、家族でワイワイやりながら、けっこう楽しかったですね。

中森
それが細川さんの生涯に渡るボランティア活動の原点かしら。

細川
そのさらに原点があって、これは母から聞いた話で私はよく覚えていないんですけれど、1歳のときに、すでに始めていたというんです。

中森
1歳? 何をなさったんですか。

細川
お隣に、お年寄りの夫婦が住んでいたらしいんですね。おばあさんはリュウマチで寝たきりの状態で、おじいさんがおばあさんの介護をし、家事のすべてをしていたそうです。そのおばあさんの布団の中に、私が毎朝入りに行っていたというんですね(笑)。最初は母に抱かれて遊びに行っていたのでしょうけれど、そのうち、朝になると私がハイハイをして一人で行くようになったそうです。子どもがいない老夫婦に私はとてもかわいがられ、おばあさんは私が布団の中でひと時過ごすことを、とても喜んでくれたと母から聞きました。

中森
小さな子どもでも、人に喜んでもらうと、うれしいものなんでしょうね。その“喜び”が細川さんの中にひめられていたボランティア精神のスイッチを押したのかもしれませんね。でも、1歳の細川さんを一人でお隣に行かせたお母さまもすばらしい方だと思います。


元祖・湘南ガール

細川
そうなんです。「危ないから」とか「やめなさい」とか「こうしなさい」ということは言わない母でしたね。それに他人に対して、とても寛容なんです。まだ日本にボランティアなんて言葉が広まる前から、両親とも「奉仕活動」という言葉をよく口にして、また人にあたたかく接することを大切にしていました。
だからでしょうか、私は中学生のときに、クラスメートに呼びかけて、養老院へ歌を歌う慰問に行ったり、私たちが書いた絵を壁に張りに施設へ行ったりしていましたね。
そうそう、私は藤沢の鵠沼という海の近くに住んでいたこともあって、高校性のときに、波があれば必ずといっていいほど海に入ってサーフィンをしていたんです。

中森
あの時代にサーフィン? それも女子高生のときに。だって細川さんは、校則が厳しい、あの有名女子学校の生徒でいらしたんでしょ。

細川
でも、母はやめなさいとは言いませんでした。心配はしたかもしれませんけれど(笑)。当時は、いまのようにサーフボードの上に立って波に乗るサーフィンはまだ日本では知られていなくて、自分で木材を削って作ったボード、いまでいうボディボード・サーフィンだったんですね。女性は鵠沼では私がたぶん第1号。いい波が立ったときは、仲間と海に入っていましたね。でも、2回ほど大波にのまれて死ぬほどの思いも経験しました。私はなんというか、キケンとかスリルという感覚が大好きなんですね。53歳のときにはスノーボードも始めました。

中森
なんかわかる。細川さんは、いい意味で安定志向ではないですものね(笑)。チャレンジャーなのね。けっこう波乱万丈の人生を選んでいらっしゃるわよね。

細川
危なっかしいことや難しそうなことが大好きなんです。なぜか挑戦してみたくなるんですね。いまもそう。人は年齢を重ねてくると、新しいことにチャレンジすることをためらう傾向がありますけれど、経験を積んでいる分だけ、やる気を出せば意外と若い人よりもうまくいくんじゃないかって思っています。一歩踏み出してみる気持ちは、年齢に関係なく持ち続けることが大切ではないでしょうか。



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