生きる力の源泉

生きるために必要な力とはなんでしょうか。その力はどこからわいてくるのでしょうか。 このコーナーでは、算命学カウンセラーの中森じゅあんさんがコーディネーター役になり、各界で活躍されている方々をゲストに迎えて、私たちが「本来的に生きる意味」を再確認し、「どう生きるか」をあらためて考えていきます。

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生きる力の源泉

中森じゅあん×小林研一郎 対談【前編】 楽譜の行間に広がる宇宙をとらえたい

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第4回は、「コバケン」の愛称で親しまれ、国内外で活躍している指揮者の小林研一郎さんがゲストです。

プロフィル
小林研一郎(こばやし・けんいちろう)
東京芸術大学作曲科及び指揮科の両科を卒業。1974年第1回ブダペスト国際指揮者コンクール第1位、特別賞を受賞。「プラハの春」「ルツェルン・フェスティヴァル」など多くの音楽祭に出演するほか、ヨーロッパの一流オーケストラを多数指揮。ハンガリー政府よりリスト記念勲章、ハンガリー文化勲章を受章。1994年には、"星付中十字勲章"という民間人としては最高の勲章を授与された。2011年、文化庁長官表彰を受ける。現在、東京文化会館音楽監督、東京芸術大学名誉教授、東京音楽大学名誉教授、リスト音楽院名誉教授、ハンガリー文化大使ほか。著書に『小林研一郎とオーケストラへ行こう』(旬報社まんぼうシリーズ)。

中森じゅあん(なかもり・じゅあん)
日本算命学協会代表。バイオシンセシス・ボディサイコ・セラピスト。「灯(とう)の会(え)」主宰。ワークショップ、セミナー、個人セッション、講演、エッセイやメッセージの執筆など、多岐にわたる分野で活躍。幅広い女性層から支持を得ている。著書に『中森じゅあんの算命学入門』(三笠書房)、イギリス、アメリカ、中国でも翻訳された『天使のメッセージ』シリーズ(大和出版)は世界で愛読されている。『天使の愛』(中公文庫)など多数。



それは「第九」から始まった

中森
小林さんは、日本はもちろん世界の有名なオーケストラで指揮を執られています。その一方で、プロやアマ、障がいのあるなしを問わず、不特定多数の演奏家とそれを支えるスタッフで構成される「コバケンとその仲間たちオーケストラ」でも活躍されています。この「コバケンとその仲間たちオーケストラ」を追ったドキュメンタリー映画『天心の譜』を昨年の秋に見させていただきました。映画のなかで、とくに知的障がいのある人たちが一生懸命に練習し、オーケストラで演奏する場面は感動いたしました。そして彼女たちとふれあう小林さんの姿から、音楽を愛してやまない情熱がこちらに伝わってきました。その小林さんが、音楽の道を歩むようになったきっかけはなんですか。

小林
映画を見てくださり、ありがとうございました。でもちょっと恥ずかしいですね(笑)。
ぼくが音楽に目覚めたのは……うーん。ぼくが4歳のときに、父が学校にあるグランドピアノで「月の沙漠」を弾いてくれたんです。ピアノを弾く父の姿とメロディーに「わあ、すごいなあ」って思ったんですね。もしかすると、そこが原点かもしれません。

中森
お父さまが? お父さまは音楽がお好きでいらしたんですか。

小林
父は高校の体育の教師でした。そして、ぼくが音楽の世界に染まることに、強く反対していたんです。その父が92歳で亡くなるまで、彼が若いときに音楽家を志していたなどということは、微塵も知りませんでした。告別式の弔辞で初めて知ったんです。青天の霹靂(へきれき)ってこういうことを言うんだなと思いましたね。音楽家を志していた父が、なぜ体育教師になったのかは、わかりません。しかし、ぼくは子どものころ走るのも早かったし、いろんな運動が得意でした。だから父は自分と同じ体育の先生にしたかったのでしょう。いやこれは推測ですが、自分の体験から音楽を仕事にすることは、ものすごく難しいと考えていたのかもしれません。

中森
なんだかドラマティックですね。お父さまは、ご自分でその大変さを経験されているから、息子にはその苦労を味わわせたくないと。でも小林さんは、お父さまの反対を押し切って、音楽の道に進まれます。

小林
ぼくが作曲を始めようと思ったのは、小学校4年性のときに偶然、ラジオでベートーベンの「第九」を聴いてからでした。なんかこう、心臓をわし掴みにされたような衝撃があって。いまでも自分がラジオの前に立っているときの様子を覚えています。
それで小学校の教員をしていた母に頼んで、ガリ版印刷で五線紙を刷ってもらいましてね。当時は戦後まもないころで、五線紙など簡単に手に入りませんでしたから。しかも、何メートルも透けて見える青い海があり、小鮒が群れをなして泳ぐ川がある田舎です。



五線紙を破られても

中森
少年時代は、どちらでお過ごしになられたんですか。

小林
東日本大震災の被災地である福島県いわき市です。自然がとても豊かで、ぼくは大自然にはぐくまれてきたんですね。セミが鳴き、トンボやイナゴが空を飛び、雨上がりにカラタチの垣根にホタルが飛び交う。そんなときに曲ができるんですね。それを母がガリ版印刷で作ってくれた五線紙に一生懸命に書くんです。

中森
作曲を始めたのは小学4年生のころからですか。

小林
そうです。独学でした。ただなんか書きたい、音にしたくてしょうがないんです。ピアノが弾きたくてね。それで真夜中に小学校の講堂に忍び込むんです。なぜならそこにピアノがあるから(笑)。真っ暗な中、月明かりを頼りに即興曲を弾くの。最初はただ音を出しているような感じだけれど、だんだんうまくなっていくんですね。ベートーベンの「月光」を聴いたときなんか、あんなふうにやってみたいなと真似してね。

でも、曲を書いた五線紙が父に見つかると破かれてしまうんです。せっかく出来上がった作品をビリビリと破られて、捨てられて、燃やされて。だからそのあとで、頭の中にある音を思い出しながらまた五線紙に書いていく、そんなことの繰り返しでしたね。
それで中学2生のとき、創作コンクールで優勝したんです。それがラジオで放送されましてね。応募作を論評する人が「今回優勝した小林研一郎くんは、ものすごい才能に恵まれている。こんな曲を書ける中学生がいるなんて考えてもみなかった。これはぜひ、大事に育ててもらいたいですね」なんて言うものですから、父もやっとその気になりまして(笑)。以降、ぼくのことを応援してくれるようになりました。

中森
よかったですね。もしかするとお父さまは、あえて反対することで、小林さんの音楽に取り組む本気度というか、どこまで真剣に探究できるかを、じっと見ていたのかもしれませんね。愛情があるが故の厳しさというか。

小林
どうでしょう。でもそうかもしれません。父が手のひらをかえすように応援してくれるようになると、こちらもいい加減なことはできなくなります。「そんなことで音楽ができるか!」と、今度は正反対の角度から叱られますから(笑)。

【後編】へ続く


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