生きる力の源泉

生きるために必要な力とはなんでしょうか。その力はどこからわいてくるのでしょうか。 このコーナーでは、算命学カウンセラーの中森じゅあんさんがコーディネーター役になり、各界で活躍されている方々をゲストに迎えて、私たちが「本来的に生きる意味」を再確認し、「どう生きるか」をあらためて考えていきます。

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生きる力の源泉

中森じゅあん×石井幹子 対談【前編】 心に響く明かりを灯したい。逆境をチャンスに変えて

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第3回は、東京タワーや姫路城など、数多くのライトアップを手がけ、国内外で活躍する日本の照明デザイナーの第一人者、石井幹子さんがゲストです。

プロフィル
石井幹子(いしい・もとこ)
東京芸術大学卒業。フィンランド、ドイツで照明デザインを学ぶ。1968年に帰国後、石井幹子デザイン事務所を設立。東京タワー、東京湾レインボーブリッジ、姫路城、白川郷合掌集落、善光寺、浅草寺をはじめとした国内外の建造物や、さまざまな光イベントの照明デザイン、ライトアップを手がける。国内外で多くの賞を受賞。2000年に紫綬褒章受章。著書に『LOVE THE LIGHT, LOVE THE LIFE 時空を超える光を創る』(東京新聞)、『光が照らす未来-照明デザインの仕事』(岩波書店)など多数。

中森じゅあん(なかもり・じゅあん)
日本算命学協会代表。バイオシンセシス・ボディサイコ・セラピスト。「灯(とう)の会(え)」主宰。ワークショップ、セミナー、個人セッション、講演、エッセイやメッセージの執筆など、多岐にわたる分野で活躍。幅広い女性層から支持を得ている。著書に『中森じゅあんの算命学入門』(三笠書房)、イギリス、アメリカ、中国でも翻訳された『天使のメッセージ』シリーズ(大和出版)は世界で愛読されている。『天使の愛』(中公文庫)など多数。



照明との出合い

中森
幹子さんとは数十年来、親しくさせていただいていますけれど、こうした対談は初めてじゃないかしら。今日お会いすることを、とても楽しみにしていました。
早速ですが、幹子さんは日本における照明デザイナーの草分けで、いまは照明に自然エネルギーを積極的に取り入れるなど、常に先陣を切ってお仕事をなさっています。照明にかかわるきっかけは、なんだったのですか。

石井
私は大学生のとき、工業デザイナーになりたいと思って、その勉強をしていました。卒業後に、東京のデザイン事務所に就職したのですが、そこで偶然、照明器具をデザインする仕事を与えられたんです。照明器具は当時、電気工学の分野で扱われていたんですね。駆け出しの私はその仕事に懸命に取り組みました。そして照明器具が出来上がり、明かりがぽっと灯ったとき、なんだかものすごく感動したんです。

中森
工業デザイナーの世界もまだ、当時は男性の世界だったでしょうね。でも、幹子さんは仕事を任された。その照明器具は、どんな物だったのですか。

石井
白熱電球が一つ入っている家庭用のシンプルな器具でした。しかし明かりが灯ると、テーブルの上にある花やいろんな物の色や形がはっきり見えて。それは当たり前のことなんですが、でも私は「光ってすばらしいなあ」と、心がキュッと震えたんです。
それがきっかけで、照明デザインの勉強をしたいと思うようになったのですが、当時まだ日本では、その分野が確立されていませんでした。そんなとき、たまたま書店で北欧のデザインの洋書を見つけたんです。でも値段が、私のお給料の半分くらいもするんです。ほかに情報がない時代でしたから、思い切って購入しました。
本には、美しい家具や照明器具の写真がたくさん紹介されていました。その中で最も心ひかれたのが、私の生涯の師となるリーサ・ヨハンソン・パッペ先生の作品でした。
そこで私は、フィンランドのリーサ・ヨハンソン・パッペ先生宛てに「私をあなたのアシスタントとして雇ってください」という内容の手紙を書いて送ったんです。そうしたら一カ月半後くらいにお返事がきて、「わかりました」って。

中森
お返事を読んで、びっくりなさったでしょう。しかし、フィンランドにいらっしゃる先生に「雇ってください」と手紙を出す幹子さんも大胆というか(笑)。
でも人って、本気で何かを求めていると、不思議とチャンスが近寄ってくるものなんですよね。本人の思いが強いほど、小さなチャンスも見逃さずに拾うことができる。お弟子さんになることができたのも、幹子さんの真剣な気持ちが伝わったからじゃないかしら。フィンランドに行かれたのは、おいくつのときでしたか。

石井
26歳でした。リーサ・ヨハンソン・パッペ先生は、当時60歳くらいの女性で、私を本当の娘のように接してくださいました。デザインのことはもちろん、立ち居振る舞い、お行儀のことなども、いろいろと教えてくださいました。
いまでも忘れられないのが、あるパーティーでのことです。私はぽつんと壁に寄りかかっていたんですね。そうしたら、先生にとても厳しく叱られてしましました。「モトコ、何をしているんですか! 壁に寄りかかってはいけません」って。
ヨーロッパでは、白い壁に寄りかかることは、マナー違反なんですね。言われてみれば、日本でも、障子や土壁に寄りかかったりしませんよね。私は「先生、申し訳ありません。ごめんなさい」って謝りました。
先生はとても教育熱心で、ときに叱られることもありましたが、ほかのお弟子さんもみな、先生を母親のようにお慕いしていました。
リーサ・ヨハンソン・パッペ先生のもとで一年ほど照明デザインの基本をしっかり学び、その後、先生の紹介でドイツのデュッセルドルフにある照明設計事務所で、デザイナーとして働くことになりました。お仕事をさせていただくことで、同時に学ばせていただけることも多く、私は一生懸命に働きました。



偏見に負けず

中森
単身、ヨーロッパで修行されるなかで、心細く感じたこともあると思いますけれど、デザイナーとして順調に滑り出したんですね。

石井
いや、そうでもないんです。リーサ・ヨハンソン・パッペ先生からは叱られることも多かったですし、ドイツでは、ずいぶん同僚から妬まれました。きちんとしたドイツ語も話せない人が、仕事を盗って行くって。
1960年代の後半に帰国して、小さな事務所を立ち上げたときも、日本では照明デザインというものがどういうものか浸透していない時代でしたから、仕事がないんです。いろんな方に会いに行って、そのつてで建築家の方と知り合えるようになって、やっとお仕事をもらって、という感じです。
ある建築家さんが地方都市でお仕事をされていて、私を呼んでくださったときのことです。建築家さんが市長さんに「今度この人が照明やります」って紹介してくださったんです。しかし、その市長さんはあとで周囲の人に「あの建築家は何を血迷っているんだ。女なんか連れてきた」って怒っていたというんです。
75年に開催された沖縄海洋博の準備のときもそうでした。現場では、さまざまな職種の方と一緒にお仕事をします。私に照明を担当させてくださいと海洋博協会にお願いしたところ、ずいぶん渋られました。何度も足を運びましたが、30代だった女の私に照明全体の采配ができるはずない、という先入観があったんですね。ですから、お仕事をいただいてからは、現場の親方をはじめ、たくさんの職人さんとコミュニケ―ションを積極的にとりました。
お仕事をさせていただければ信用していただけるのですが、最初のころは女であることや、仕事への無理解などで、嫌な思いをしたこともいっぱいありました。

中森
それ、よくわかります。私がコピーライターをしていた初期のころは、女性が少なかったんです。初対面のクライアントさんの所にうかがうと、私がコピーライターだと誰も思わないんですね。自己紹介すると「なんだ、女かよ」なんて小馬鹿にされて。いまでは信じられない時代がありました。お互いによく辛抱いたしました(笑)。

【後編】へ続く


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